2011年1月21日金曜日

導きの光について――大いなる仏の慈悲を感じ取ろう

あの世に持って還れるものは心しかないのであれば、たとえ、この世において、どのような状況が現れてこようとも、それらは、すべて、自分を磨き、試し、導くための道具にしかすぎないのです。

天命が下り、幸福の科学や幸福実現党は「世直しに努力せよ」と言われているのですから、たとえ、インスタントラーメンのように、たちまち出来上がることはなくても、やはり、粘りに粘らなくてはなりません。
数少ない力を分散させることなく、しっかりと宗教的な仕事もしながら、この世的にも、改革や改善、世直しができるように活動しなければいけないと考えています。そのため、本当に、なけなしの力を振り絞って活動し、少しずつ少しずつ前進しているような状況です。

幸福実現党は、「消費税撤廃」を主張したりしましたが、残念ながら、日本には、今、「増税やむなし」と考えている人が60%ぐらいいるようです。
しかし、国民は騙されているのだと私は思います。消費景気を拡大するためには、実は、増税はマイナスに働くのです。
税金を高くすると消費が減り、国民は、ますます貯金をします。また、銀行が潰れるとなったら、タンスにお金を隠します。その結果、あまり消費をしなくなるのです。

信仰や宗教に対して肯定的な価値観を持っている国では、自分が接した宗教を、「よいものだ。自分を感動させるものだ」と思えば、それに積極的に参画する人が多いのです。

「信仰心の偉大さ」を、しっかりと植え込む。基本的に信仰心が大事です。

経文『正心法語』の「救いの力」は極めて強力。

この世で貯金がたくさんたまっても、それは、あの世に持って還れません。あの世に持って還れるのは「心」だけです。心を磨くことが必要なのです。
貯金は、生きている間しか使えません。子孫に少しは遺せますが、それだけでは駄目です。また、三途の川を渡るとき、六文銭などは使えません。三途の川を渡りたければ、この世的な執着を捨てなければならないのです。
「この世で幸福、あの世でも幸福」ということが、いちばんよい“方程式”なので、「この世でもあの世でも幸福な道」を選んでください。

『正心法語』を読む習慣を身につければ、地獄に堕ちることはない。

「多くの人を救いたい」というのが私の本心です。
その実現のために、みなさん一人ひとりの活躍を期待しています。みなさんの力の一部を、人々を助けるために差し出していただければ、私にとって、それ以上に大きな幸福はありません。

以上、『救世の法』――信仰と未来社会 大川隆法著(幸福の科学出版刊)より抜粋させていただきました。このような書籍を発行して下さった、地球神、主エル・カンターレ、大川隆法総裁先生に心より感謝申し上げます。

2011年1月18日火曜日

般若の智慧

第4章 般若と許す愛

1 般若の境地とは

「般若の智慧」という言葉があります。これは『沈黙の仏陀』(幸福の科学出版刊)第5章「智慧とは何か」で述べたのですが、この「般若」という言葉は、仏教の悟りを理解するうえでは、とても大切な言葉です。
そこで本章では、この「般若」という言葉について、さらに深い解説を加えるとともに、一方、「悟り」とは対置されながらも、悟りの段階に対応する「愛」について、般若とはいったいどのような関係があるのか、ということを述べてみたいと思います。
一般に、「般若の智慧を得る」ということは、「悟りを得る」ということと同義のように言われています。いったい、いかなる理由において、そのように言われるのでしょうか。
般若の智慧を得るためには、まず、日々の修行態度を正しくしていかねばなりません。いわゆる三学という「戒・定・慧」を、丹念に修練していかねばなりません。日々、自ら戒め、また禅定の体験をし、そして智慧を蓄えていく。その過程で、やがて解脱という体験をし、解脱の結果、涅槃の境地を得る。この涅槃の境地を得たときに得られる、透明感あふれる深い深い智慧、これを「般若」と呼んでいるのです。
それは永らく、仏教の修行をしてきた人にとっては、“永遠の憧れ”ともいうべき言葉でした。般若の智慧を得るとは、どういうことなのか。それを得たら、いったいどのようになるのか。それは永らく、修行をしてきた人たちの共通のテーマでもあったと思います。
この「般若の智慧を得たら、どのようになるか」ということを、ひと言で表わすとするならば、結局、自己が見え(観え)、他人が見え(観え)、世界が見える(観える)」ということです。すなわち、この三次元世界に生きている人間でありながら、「いかなる世界に、いかなる意味において、他者とのいかなる関わり合いにおいて、いま自らが生かされているのか」ということがわかってくる境地になるのです。
さらに、言葉を換えていうならば、般若の境地というのは、「生きている自分」ではなく、「生かされている自分」というのを、しみじみと悟る境地であると言えましょう。
前者の「生きている自分」、つまり、「積極的に、能動的に、力強く選びとって生きていく自分」をかたちづくっていく自意識を「識」の立場とすると、「般若」というのは、「生きている自分」ではなくて、「生かされている自分」というものを深く感じとっていく境地です。
もちろん、前者も充分に立派な生き方ではあるのですが、それを一段超えた境地として、「生かされている自分というものを知る」、あるいは「生かされている他人というものを知る」、あるいは「すべてを生かしめるための世界であるということを知る」――そういう智慧があるわけです。これを「般若」といいます。
『沈黙の仏陀』の第5章「智慧とは何か」でも、「識」と「般若」について、識は、他のものを分析することはできる、人やいろいろな社会事象を分析することはできるけれども、自分自身を見ることにおいて不得手である、と述べました。
ちょうど、人差し指が人を指すことはできても自分自身を指せないように、ちょうど、刀が他のものを切ることはできても自分自身を切ることができないように、識の立場というのは、自我がしっかりしていて、いろいろなものを分析的に見ることが得意ではあるが、自分自身を見ることは難しいのです。
しかしながら、般若の立場になると、無我の立場になってくるので、自分も他人も、すべての世界が、ありありと如実にわかるようになってくる――『沈黙の仏陀』でそう述べましたが、まさにその通りです。
それは、生かされているということを、しみじみと感じる境地です。「ありとあらゆる現象――喜びも悲しみも、苦しみも憂いも、いろいろなことが、この世にはあるけれども、すべてのものが、実は、私の生命というものを生かしめるためにある大いなる教材なのだ。そういう大いなる教育の場なのだ」ということを知る。この世ということの意味を知る。この世がなぜあるのか、私がなぜ今ここに生きているのか、いかにして生まれ、いかにしてこの世を去っていくのか――これを知った智慧が般若です。
識の立場というものは、もう少し狭いのです。この世の中で、より優れたるものをつかみ取っていく、優れたる自己となっていくための修行に必要な知恵、それが識です。これは、人間としての自己確立、自己形成、自己発展にとっては非常に大事なものですが、あくまでもまだ視野の狭いところがあります。
般若の悟りを得てきますと、霊界をも含んだすべての世界のなかで、生まれ、生き、死に、あの世に還り、また生まれ、生き、死ぬ――そういう転生輪廻の流れのなかで、自己というものをつかみ、さらに他の人の人生というものをつかみ、自己と他人とが同時代の同期生として魂修行をしながら生きている、という現実を知ります。
そして、この世的には、いろいろと辛いこと、苦しいこと、悲しいことがあったとしても、そうしたものは、すべて実体のあるものではなく、あくまでも物質世界という教室で、実験として、自らの魂修行のために行なわれている、ということを知るようになります。
すなわち、般若の智慧の段階においては、「一切が無常である」ということを知っています。また、「一切が無我である」ということを知っています。
この世のすべての事物が、肉体が、諸現象がすべて、無常なるもの、常ならず変転していくものであることを知り、また、存在しているように見えるすべてのもの、森羅万象が、実は無我、すなわち、「本来の存在ではなく、大宇宙の意志によって、一時期、仮に現象として現わされているものであって、それはあくまでも魂修行のための教材にしかすぎないのだ」ということを知る――こういう境地が、実は悟りの境地であり、般若の智慧ということでもあるのです。

以上、『心の挑戦』――宗教の可能性とは何か 大川隆法著(幸福の科学出版刊)より抜粋させていただきました。この世的には、いろいろと辛いこと、苦しいこと、悲しいことがあったとしても、そうしたものは、すべて実体のあるものではなく、あくまでも物質世界という教室で、実験として、自らの魂修行のために行なわれている、ということを学ばせていただきました。このような書籍を発行して下さった、地球神、主エル・カンターレ、大川隆法総裁先生に心より感謝申し上げます。

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