2011年4月22日金曜日

仏の化身

仏の化身

 さて、光の菩薩とは、一体なんなのかということを中心に、お話したいと思います。
 天使といえば、キリスト教的であるし、一方、菩薩というと、とても仏教的な響きがあります。しかし、仏教でいう如来の中には、一部キリスト教の大天使がふくまれていますし、菩薩という言葉にも、天使の意味合いがふくまれています。
 すでに述べたことですが、本来、仏教も、キリスト教も、仏法真理であることにかわりはないのです。ただ、開祖の個性によって、光の色がちがっているだけなのですから、高級霊たちを、光の大指導霊といっても、光の天使といっても、その意味に大差はありません。つまり、彼らは、一般の魂、普通の人々から見たならば、仏の化身ともいうべき存在だということです。
 では、なぜこのように、仏の化身ともいうべき高級霊が存在するのでしょうか。仏が人間を平等に創造したというならば、こうした高級霊が存在すること自体、すでに、人格に差別をもうけているのではないでしょうか。平凡な人間はあくまでも平凡に、高級な人間はあくまでも高級に、同じ人間として、それぞれ生きたらよいのではないでしょうか。
 一方に高級霊がおりながら、他方に低級霊がなぜいるのかという問いに対しては、仏の世界観は、「平等」と「公平」という二つの観点からなりたっているということから答えていかなくてはなりません。
 すべての人間、すべての動物、すべての植物、すべての鉱物に仏性が宿っているという事実、たとえ現象としてはどのようにあらわれていようとも、万象万物は、すべて仏の意志の発露であるという真実、これは、動かしがたい仏法真理なのです。
 言葉をかえていうならば、生きとし生けるもの、万象万物はすべて、仏の叡智という名のダイヤモンドでできているということです。人間を人間としてあらしめるため、植物を植物としてあらしめるため、仏はさまざまにダイヤモンドをちりばめ、いきいきとした造形の美をかもし出しております。そして、どの人間をとってみても、どの動物をとってみても、どの植物をとってみても、そのすべては、叡智という名の仏のダイヤモンドでできている。それが、真実なのです。
 これが、仏教でいう万物に宿る仏性であり、人間を仏の子として捉える思想なのです。したがって、高級霊であれ、低級霊であれ、仏の生命を体現しているということに関しては、すべて平等なのです。平等でないというのは、「高級」「低級」という言葉の響きに迷わされているだけにすぎません。
 要は、高度に進化した霊と、進化途中の霊、そして、未発達の霊があるだけなのです。すべて同じ道筋を歩いている者なのですが、つまりは、先を歩いている者と、後方を歩いている者とのちがいがあるということなのです。
 高度に進化した光の指導霊というのは、魂としてつくられたのが古いために、目的地である仏の境涯に近い先の方を歩いているのです。一方、未発達の霊というのは、そのほとんどの場合、魂がつくられたのが新しい。新しいがゆえに、後方を歩いているだけなのです。はたして、これを不平等だといえるでしょうか。自らの歩いたぶんを、その距離を距離として評価すること自体が不平等だといえるでしょうか。
 それは、平等、不平等ではなく、公平の点から評価されるべきことなのです。たとえ古い魂であったとしても、必ずしも、道をどんどん進んで行っているとはかぎりません。道をひきかえしてくる人がいるからです。たとえば、元天使だったにもかかわらず、地獄の悪魔になったりしている者は、かなりの道のりを進んでいた者が、何を考えちがいしたか、道を途中から逆もどりした場合です。こうした霊は、未発達霊というよりは、むしろ、退化霊だというべきでしょう。
 仏は、すべての霊に、仏に向かっての一本の道を進ませているという点に関しては平等をまもっておられます。また、すべての霊が仏に向かって進んだだけの距離でもって評価されるという点で公平をまもっておられるのです。
 ですから、仏の化身ともいわれる高級霊は、それだけの実績と役割を与えられているということであり、すべての霊は、また、そうした高級霊に近づいていくために、永遠の修行をしているということなのです。

以上、「太陽の法」――エル・カンターレへの道 大川隆法著(幸福の科学出版刊) より抜粋させていただきました。このような書籍を発行して下さった、地球系霊団の最高指導者、地球神、主エル・カンターレ、大川隆法総裁先生に心より感謝申し上げます。

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