「幸福になれない」症候群――グッドバイ・ネクラ人生 大川隆法著(幸福の科学出版刊)
4 自己顕示欲に悩む人へ
自己顕示欲の発生原因
次の相談は「自己顕示欲で悩んでいる」ということです。
自己顕示欲で悩む人は世の中に数多くいますが、おもしろいことに、自己顕示欲には実は二つの側面があるのです。一つは悪い面、マイナスの面ですが、もう一つは、よい面、プラスの面です。そのため、ひと口に自己顕示欲といっても、そのどちらであるかを判定するのは非常に難しいところがあります。
歴史上の英雄や偉人たちで、自己顕示欲のなかった人は少ないのではないでしょうか。彼らの多くは何らかの意味で自己顕示欲を持っていただろうと思います。それゆえに、この自己顕示欲の問題には、きわめて微妙な面があるのです。
そこで、私はまず、自己顕示欲の発生原因について考えてみたいと思います。自己顕示欲はなぜ出てくるのでしょうか。また、自己顕示欲は、本来、罪なものなのでしょうか。 自己顕示欲の発生原因は主として二つあります。
第一の原因は、人間は個性を持っているということです。
人間は仏から分かれてきた魂であり、仏の子です。その点において、万人は平等だと言えます。しかし、仏の子であることにおいて万人が平等であるとしても、もう一方で、人間にはそれぞれ個性が与えられているという事実があります。これをどう説明すればよいのでしょうか。
各人に個性があるということは、違いが強調されているということであり、その個性が守られているということは、それぞれの人が違いを出してよいということを意味しています。この部分が、人の目を引こうとする自己顕示欲の出発点になりやすいのです。
このように、自己顕示欲の根源の一つには、各人に個性が与えられているという事実があり、人間にはその個性の違いを強調する傾向があります。したがって、自己顕示欲自体を悪とは言えないのです。
人間が個性を光らせるということは、花壇に咲く花たちの姿のようなものだとも言えるでしょう。花壇の花たちは、よりいっそう背丈を高くし、よりいっそう美しい花を咲かせようとして、互いに競い合っているかに見えます。その意味において、花にも自己顕示欲があるのかもしれませんが、それを責める人はいません。
結局、自己顕示欲自体が悪いのではなく、その調整の加減が問題なのです。
自己顕示欲の発生原因の一つとして、「人間は一人ひとりが個性ある存在である」ということをあげましたが、第二の原因は、人間には「優れたものになりたい」という意志があることです。「重要な人物になりたい。重要感を持ちたい。人に認められたい」という気持ちは、人間の根源的な欲求であり、否定しがたい感情なのです。
こうした感情がなければ、人は世に立って仕事をしていくことが、ある意味で不可能になります。それぞれの人間が尊厳を持ち、「重要感を持ちたい」と考えていることが、実は社会の進化の原理にもなっているのです。
自己顕示欲の奥にある、重要感を求める気持ち、「人に認められたい」という気持ちは、魂の奥底にある願いでもあります。人間の魂は、その根底に、「発展したい」という願い、そうしたエネルギーの方向性を持っているのです。
このように、人間に個性があること、そして、人間の魂のなかに、「常に向上し、他の人に認められる存在となりたい。より偉大なるものへ脱皮したい」という欲求が本来的にあること、この二つが自己顕示欲の発生原因となっているのです。
他の人を害していないか
「自己顕示欲は、人間の魂にもともと備わっているものである以上、否定できないものであり、しかたのないものである」と考える人もいるかもしれません。ただ、問題はその先にあるのです。
つまり、その根底に個性化と向上意欲を備える人間にとって、自己顕示欲はどうしても避けられないものだとしても、その結果、お互いが幸福に生きられるかどうかという問題があるのです。
花たちは、それぞれ美しさを競い合って咲いた結果、非常に美しい景観を生んでいます。人間の目を楽しませることもでき、花たちもそれ相応の幸福感を味わっているのでしょう。しかし、美しい花であっても、一つの花の幸福が他の花の幸福を阻害するようなときには、やはり悲劇になるでしょう。
そうしたことが植物の世界には実際にあります。ある種の草や木が繁殖しはじめると、他の植物は、光をさえぎられ、養分を充分にとることができずに、生息できなくなることがあるのです。
自己顕示欲の問題点は、実はこの辺にあります。互いに共存共栄できる場合には、自己顕示欲のよい面を生かせるのですが、一つのものが栄えると他のものが滅びるような場合には、不幸が生まれるのです。
それでは、自己顕示欲は、そうした不幸を容認してまで許されるべきものなのでしょうか。
花壇に花が咲けば喜ばれますが、雑草が生えるといやがられます。雑草が家の敷地や田畑を埋めつくすほどにはびこると、非常に迷惑なので、その雑草は刈り取られる運命になります。
実は、ここにポイントがあるのです。「他のものを害していないかどうか。他のものの幸福を奪っていないかどうか」――これがまさしく自己顕示欲のチェックポイントなのです。
自己顕示欲に悩む人に対して、私は次の解答を与えたいと思います。
あなたが若くて自己顕示欲の強い人であるならば、おそらく、あなたは優秀でバイタリティーのある人だと思います。したがって、今後、ますます自分の道で精進することが望まれるのですが、その際に大切なのは、「自分が雑草のごとく生い茂って、他のものを害していないか」という観点を決して忘れないことです。
あなたは、バリバリと仕事をして目立てば、自分の気はすむかもしれません。しかし、その結果、まわりの人があなたのことを不愉快に感じてしかたがないのならば、あなたのやり方には問題があると言わざるをえないのです。
長距離ランナーのように
こうした場合に心掛けるべきことは、「静かに自己発揮をしていく」という生き方です。これが、練れた大人の生き方と言えるものなのです。
ギラギラとした自己顕示欲で悩んでいる人は、人の目を引こうと焦ったり、結果主義になったりする傾向がどうしてもあるように思います。
人の目を気にしすぎるのは、自己評価がまだ確定していないことに起因しています。自己評価だけでは満足できず、他人の評価という確認を常にとらないと、自己存在が不安定に感じられ、安心できないのです。
したがって、自己顕示欲に悩む人は自尊心をしっかりと持つことが大事です。自分自身がほんとうに値打ちのある存在であることを知る必要があります。
そのためには、人の目に映る自分の姿を考えすぎるのではなく、「自分自身を見て納得がいくかどうか。納得のいく仕事、納得のいく生き方をしているかどうか」という点を、日々、点検することです。
毎日、自分の心に誓って納得のいく生き方をすることが大事であり、それが、結局、静かに自己発揮をしていくことに通じるのです。内なる力を蓄えながら、静かに、しかも着実に自己発揮をしていくことが大事です。
さらに、もう一つ大事な心がけは、「自分が目標とするものが何であるかを明確にする」ということです。
刹那的な目標のために自己顕示をするのが最も危険です。これは破滅型の人生となることが多いのです。たとえば、「現在ただいまにおいてのみ、あの人に気に入られればよい」などという刹那的な目標のための自己顕示欲は、おそらく虚しいものになるでしょう。
肯定されるべき正しい自己顕示欲とは、将来性があり、長いあいだ自分を燃やしつづけられるものでなければならないのです。
その意味で、長距離ランナーの心得というものが何にもまして大切になります。長い距離を行こうとするならば、その途中で、人の評価を気にしたり、人の言葉に左右されたりする必要はあまりなく、自分のペースを守って着実に走りつづけることが大事なのです。
自己顕示欲の強い人は、たいていの場合、短距離ランナーであることが多いものです。短距離ランナーだと、たまには成功することもありますが、決して長続きはしません。したがって、意図的に長距離ランナーへと自分を変えていくことが、自己顕示欲の悩みから脱皮するための一つの方法なのです。
以上、「幸福になれない症候群」――グッドバイ・ネクラ人生 大川隆法著(幸福の科学出版刊)より抜粋させていただきました。このような教えをお説き下さった、宗教法人「幸福の科学」大川隆法総裁先生に、心より感謝申し上げます。
宗教法人「幸福の科学」福知山支部所属 三帰誓願者 前川謙一
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